2006年3月12日 千葉科学大学マリーナキャンパスにて
「選ばれたる人」
ただいまご紹介をいただきました佐藤でございます。
銚子は2度目でございまして、小原ガバナーの時にこちらで「やさしいロータリーの話」という講演をいたしました。それが一時小冊子になっておりましたが、なくなりましたら松戸の会員の土屋亮平先生のところでまた復刻してくださいました。その当時私が話したことと現在も論旨は一向に変わっておりません。
ところで次年度7月からRI会長はウイリアム・B・ボイドさんですね。彼のテーマが本日の講演テーマ「選ばれたる人」と関連があるのでちょっと触れさせていただきます。ボイド会長のテーマは、英語では“Lead The Way”、“率先しよう”と訳されています。まあ、あんまりいい訳はでない。間違いではないですけれどね。直訳です。昔は私もロータリーの文献翻訳諮問委員を土屋先生と一緒にしておりましたが、今はエバンストンで全部日本語訳することになっています。実はRIのある理事から、何でもアメリカのサンディエゴからの帰りだとかで「今度のRIテーマはこんな訳なんだけれども、硬直的であまり面白くない。どう思いますか」と電話がかかってきまして、「いや、私ならもっとやさしく“先ずあなたから”、それでいいじゃないか」。そうしたら「確かにそのとおり。そりゃあすごい名訳だ」と。まあ、それは余談でございます。
RIが再び取り上げた「家族」! ・・・
そのボイド会長が3つの重点的な目標のひとつとして「家族」を上げております。これに私ちょっと興味を惹かれたわけです。RIが「家族」を取り上げたのは、実は2度目なんです。1994年が国連の国際家族年で、その時に会長のハーバート・ブラウンがテーマに上げたのが「家族」でした。
そこで、ボイド会長、「私は本年度再びロータリー家族を取り上げ、ロータリー家族のすべての人々に等しく思いやりの心を持つことを強調したいと思います。ロータリーの将来を健全に保つためには、青少年交換、インターアクト、ローターアクトといった青少年プログラムが不可欠です。これらのプログラムは、次世代に、誠実さ、寛容、無我の精神を育み、ロータリーの活動を助長するものです。ロータリー家族とその配偶者を思い遣ることで、ロータリーの結束力は一層強まります。」
さて、ハーバート・ブラウン会長は、どういう形で家族を取り上げたか。ブラウンのテーマは“Act with integrity, Serve with love, Work for peace” その時私は翻訳委員をしておりまして、これを“真心の行動 慈愛の奉仕 平和に挺身”と訳しました。そして、日本語訳のテーマ・ホルダーとして、私は筆書きで“真心・慈愛・平和”と書いたものをデザインして出してございます。95年のことです。ブラウンは95-96年の会長ですから、ちょうど10年前です。覚えている方もいらっしゃると思いますが、その中で、真心の行動・慈愛の奉仕・平和への挺身という3つのキーワード、この真心・慈愛・平和というキーワードの網をかぶせておいて、このテーマ・ホルダーを、クラブにおいて、次ぎに地域社会、そして職業、国際と、要するに4大奉仕部門に分けて説明するのが普通の異論のないやり方です。ところがブラウン会長は、 まず、いきなりこう言っています。
「あなたはできます。真心の行動、家庭において」
その次ぎ、「あなたはできます。真心の行動、地域社会において」、
それでさらにまた、「あなたはできます。真心の行動、世界社会において」。
その次ぎに、「あなたはできます。慈愛の奉仕、家庭において」、
それからまた、「・・・・地域社会において」、「・・・・世界社会において」
とずうっと説明していくわけですね。
そして最後に、「あなたはできます。平和に挺身、家庭において、地域社会において、世界社会において」と。
真っ先に家庭、注目すべきは、3つのキーワードの中の最初に家庭においてと呼びかけているところです。国際ロータリーの会長がその年度のテーマを下すにあたって、まず何よりも先に、いい家庭をつくれ、会員個人の私生活に教訓を垂れるということなど未だかつてなかったことです。これには私も驚いた。40年以上のロータリー歴で、こういう会長は初めてだった。
そして「家族の一人ひとりを大切にし、親という言葉が尊重されるようにしましょう」。これにはある同期の方は「まるでオヤジしっかりしろと怒っているように聞こえる。いったい自分を何様だと思ってオレたちにそんなこと言っているんだ」と言いました。それでもブラウン会長は「子供を守り育てるという基本的な任務を引き受けて下さい。平和はまず家庭から。暴言や暴力はやめてください」。どうでしょうか。ロータリーの会員は「ロータリアンたるものそんなことまで言われなければならないのか、一体どういうことなんだ」と。
でもそれは、私たちにとってあたりまえのことじゃないですか。「家族の一人ひとりを大切にし、親という言葉を尊重されるようにしよう。子供を守り育てるという基本的任務を忘れるな」、いまの世の中を見てやっぱり愕然とするものがあるじゃないですか。
そりゃあ、東洋の儒教の精神の「修身斉家治国平天下」を翻訳して言ったんだと言えばそれまでですけれども、とにかくいままでのロータリーというのは、どうもそういう足下のことを、一番の足下は家庭ですよ、皆さんのね。一番足下のことを忘れてしまって、まるで物干し竿で天井を引き掻き回すような立派なこと言う。私はその辺がいまのロータリーの浮き上がってきているところじゃないかとこう思うんです。
ブラウン会長がこんな呼びかけをしたことの背景には、言うまでもなく世界的な傾向として家庭の崩壊、教育の荒廃、青少年の不良化、凶悪犯罪の増加という問題があるのです。特に際だって顕著な変化があったのはアメリカで、冷戦が終わってみればアメリカ国民の関心がこういう内側の危機に向いてまいります。アメリカ人として真面目なクリスチャンであるブラウン会長は、これじゃ居ても立ってもいられなかった。社会不安の増大とともにキリスト教によるよき時代の道徳の再建という運動が起こってくるのでございます。それが行き過ぎると他の宗教との尖鋭な対立、結局宗教というのは諸刃の剣でございます。それが現状でございます。とにかく国際連合は、94年を国際家族年、95年を国連寛容年とし、世界に呼びかけているわけでございます。
問題の本質は32年前と少しも変わっていない ・・・
それについて、偶然ではございますけれども、実は私の第358地区で、今年のガバナーが2月の「世界理解と平和の日」に因んで私に何か書けと言うもんですから、何かないかなと探してみました。ちょうど32年前、私はガバナーでした。その年度の地区大会での私の講話でございますが、前の方は、むろん会長代理としての関連の挨拶だとか、皆さんに対するメッセージだとかです。後の半分の方をそっくりそのまま写してうちの地区の月信に載せたわけでございます。そこのところをいまの「家族」と関係がありますので讀んでみます。
平和と繁栄の中に潜む現代の危機から目を逸してはいけない ・・・
----- 顧みて戦後三十年、未だ曾てない永い平和の中に、言論、集会あらゆる意味の自由を謳歌し、想像を絶する経済成長を遂げながら、果たして人は生きる喜びに朝夕を迎えているでしょうか。「人生の目的は何か。それは大臣になることでも大将になることでもない。朝眼が覚めた時ああ今日も生きている―と胸を張って精一杯生きている喜びを噛みしめることのできる生活、そういう生き方をすることだ」----- 曾て少年の日、私はある日何気なく手にした書物の中で、ある文士のおおよそこの様な意味の言葉を発見し、はげしい心の昂ぶりを覚えました。それは、私が佐原中学に入った頃の言葉でございます。佐原中学の1年生がこういう書物に接したわけです。
私がガバナーになった時(1974-75)のテーマは、「生きる喜びを発見しよう」というものでした。その前に、「人間とは、人と人との間柄。生きる喜びを発見しよう。ロータリーとは間柄の美学である。」という話を小原ガバナーの時に銚子の地区大会でさせていただきました。いまでもその信念は変わりません。人間はやはり人の間だ。私があってあなたがある。夫があって妻がある。男があって女がある。間柄において人間があるんです。どっちが偉いわけでもない。どっちが上か下かでもない。ちょうど鐘が鳴るのか鐘木(しゅもく)が鳴るのか、鐘と撞木の相鳴るのか、どっちが鳴っているんだと、カーンと。鐘と撞木の間で。人間関係とは私とあなたの間柄で持っているんじゃないか、それが人生ということだ。由来これは私の人生指針となったのでありますが、人間にとって仕合わせとはそういう生き方をすることに他なりません。
然らば、今日の我々の生活の実態はどうでしょうか。物質的には我々は幾十倍も豊になりました。然し我々は幾十倍も仕合わせになったでしょうか。否、寧ろ物質の豊かさに反比例して精神は貧しくそして荒廃し、暗い冷たい虚無の風におののいては、刹那の享楽に一時を逃避しているのではありませんか。永い平和が続きましたが、「人は平和の重みに耐えられない」、ということも悲しむべき事実であります。それかあらぬか、何の謂われもなく、突如として無関係な一般市民の生命が奪われるという様な、恐るべき凶悪犯罪が続出しているではありませんか。抗議行動と称する法秩序無視の騒擾に至っては枚挙に遑がありません。また、「欲望の多様化」とか称する言葉のもとに、当然の権利であるかのごとく錯覚されている我儘勝手の横行は眼を覆うものがあります。平和と繁栄に酔い、すべての人が所謂「多様化した欲望」をそれぞれ満足させようと狂奔した結果、今我々が手に入れたものは何んでありましょうか。
カーター前会長は「生活の質」Quality of lifeという問題をテーマにしましたが、我々の「生活の質」は果たしてどうなったでしょうか。皆さん、この三十年に及ぶ永い自由と平和と繁栄の果てに、今すべての人の中を吹き抜ける、空しい、不気味な、冷たい風・・・なおこれは一体どうしたことなのか? 現代を一言で表現すれば、それは「我儘勝手時代」であり、そして「生き甲斐喪失時代」でありましょう。然し、それにも拘わらず、人間存在の本質が人と人との間柄にある限り、人は人を求め、愛すること、愛されることを念願して居ります。ただその念願と現実との乖離が生き甲斐喪失となり、我儘勝手となって現れると見る外ありますまい。
そして、次ぎに、時の総理府青少年対策本部の重要な統計で、世界11ヶ国、即ち日本、イギリス、フランス、スウェーデン、西ドイツ、ユーゴスラビア、インド、フィリッピン、ブラジル、アメリカ、スイスの2,000名の青年を対象としていっせいに行った意識調査(1972年10月)がございます。何時の時代でも若者は最も時代の趨勢に鋭敏であり、これを明確に把握することが非常に大事です。また、青少年問題という大きな活動対象を持っているロータリーとしても、これには重大な関心を寄せなければなりません。
先ず第一の設問、「人生の目標」については平均数値として、「誠実と愛」が42.2%、「お金と地位」が34.8%、「やりがいのある仕事」が31.2%となっておりますが、これを各国別で見ると、我が日本の場合際立った特質が見られます。すなわち「誠実と愛」は、アメリカが63.5%で筆頭、スウェーデンは59.8%、ユーゴスラビアが58.4%、フランスが56.4%、日本の場合はたった35.8%、そして、先進国にもかかわらず日本人が一番の目標として掲げているのは「やりがいのある仕事」で28%、然もその半面、「何を求めてよいかわからない」という回答が18.7%もあり、これが群を抜いて高い。自分で自分のやりたい仕事が答えられない。だからいまフリーターが増えているのではないでしょうか。
第二の設問、「道に迷って困っている人をみかけたらあなたはどうしますか」に対して、「声をかけてみる」という答は、スイス、アメリカが50%以上で一番高く、日本は30%で最低。どうも日本の人間関係には他人に対する思いやりという点で、異常なものがあるんじゃないでしょうか。
第三の設問は、「人間の本性は善か悪か」ですが、驚くべきことに、日本の青年の33%が「人間の本性は悪だ」と答えております。これはスイスの15.4%、アメリカの16%、イギリスの16.2%等に較べて異常に高い数字でございます。一体これはどういうことでしょう。戦後の教育と社会風潮に根ざす所が大きいのではないかと思われます。
第四の設問、「友人生活における満足度」。これは各国とも90%前後の高い満足度を示していますが、日本の場合はやはり他の国に較べて最低の83.9%。然しそれは、第五の設問、「心をうちあけて話せる友人がいるか」、第六の設問、「友達づきあいは深入りすべきか」とも関連する所ですけれども、フランスの如きは、深入りすることを肯定する答はわずかに12%でしかないのに、日本の青年層の68.8%もの圧倒的多数が「友達つきあいは深入りすべき」と全く特異な意識構造でございます。
次に青年の最大の悩みは、親子の意見のくい違いでございます。その中で、家庭の収入不足を不満とする者は、我が国と発展途上国が多い。これだけ経済が発展していても、そんな様なことで、どうも何かおかしい所がある。
「国家社会に対する満足感」となると、これはまた日本の青年層の不満足度は異常で、なんと73.5%の人が不満足と回答しています。そして、その当時の青年は三無主義あるいは4無主義という、無気力、無責任、無関心が三無主義、これに無感動を加えると四無主義となるのですが、とにかく全国勤労青少年会館の相談室がまとめた調査では、安定所の相談室を訪れる若者達の多くは、「何かいい仕事はないでしょうか」---「適性検査してくれませんか」--- と向こうから言ってくるというんですね。係員が、「君はどういう気持ちなの」と訊いても、「別に希望はありません」という答が返ってくる。だから、生き甲斐のある仕事をしたいと言いながら自分で答えられないのです。
さて、最後に「30年後にはもっと住みよい社会になっていると思うかどうか」。これは32年前の調査です。これに対しては、先進国すべての青年が悲観的であったということを、極めて重視しなければなりません。「もっと住みよい社会になる」という答は、アメリカの40.4%が最も高く、日本は28.5%でしかありませんでした。とにかく「一個の生命の重みは全地球のそれよりも重い」という言葉もございますが、なんとそらぞらしく響く時代でしょう。
平和の重みに耐え得る者、これをこそ真の強者という ・・・
「いのちは玉よ!」。これは確か吉川英治の『宮本武蔵』の中に出てくる言葉だったかと思いますが、こういうことを実感として命を大切にしようというのは、寧ろ戦国時代の人たちですね。今はいのちを紙屑程度しか考えない。私は平和を決して否定するものではありません。然し問題は、今この平和と繁栄の中に潜む現代の危機であって、我々はこれから目を逸らしてはなりません。これに対する産業人の責任ということを私たち経営者は考えなければならない。だから私はガバナーの時にこういうことを言いました。「平和の重みに耐え得る者、これをこそ真の強者という」。本当に強い人というのは、平和というこの重み、これに耐えられるかどうか。戦争でいのちを捨てるよりも、平和と繁栄の中で玉のいのちを燃焼させ、己がいのちの喜びを静かに噛みしめることのできる生活、それが本当は大事なんです。この方が実ははるかに難しい。だから私はその時の地区大会に結びの言葉として、「ロータリーの皆さん、正に黄金の十字架は荊の冠ですよ」と言ったんです。現代人の我々は金は沢山できた。その代わり頭には荊の冠をかぶった。それが現代人の姿です。以上が32年前に私がお話したことです。
●「家族」こそ原点-親子の関係が一番大事
ところが今はどうでしょう。再び今度のボイド会長は家族、家族こそ原点と主張されなければならない。戦後民法が改正されました。そして家族というもの、家庭というものが分解してしまいました。個人の尊厳、結婚は両性の合意だというまではよかったんですが、家庭が中心という制度を破壊してしまったことは将来に大変な失敗となってしまいます。道徳の根源は家庭にあります。なぜ、家庭をなくしてしまったか、いまから60年前、占領軍の圧力で民法を改正し、「家」を破壊してしまったという主旨の論文を商工会議所の新聞に書きました。必ず道徳は荒廃すると言ったのであります。それがそのとおりになっているではございませんか。
そういう教えは実は2000年前の孝経にございました。これは孔子がつくったというんですが、実際は孔子の弟子の曾子、そのまた門人が書いたという孝行の孝経です。日本では文武天皇の701年に大宝令ができましたが、その学校制度の中に論語と孝経を必修科目にしろと出ているんです。その次の孝謙天皇の天平宝字元年、これは757年、その詔勅の中で「よろしく天下に令して家毎に孝経一本を蔵せしむべし」と布告しているんです。詔勅の中で各個に孝経一冊を備えるようにせよと757年に既に提案をしている。それで孝経の孝、親孝行の孝とは孝経には何と書いてあるか。「孝は徳のもとなり。教えよって生ずるところなり」。ブラウン会長は「親という言葉が尊重されるようにしましょう」と呼びかけた。しかし、この2000年前の孝経には「孝は徳のもとなり」、徳の根本は孝行だ。「教えの拠って生ずるところなり」。それに「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」。親からいただいたこの体、大事にせよ。傷つけてはいけない。これがやはり曾子が死ぬ時に、臨終の時に弟子に対して、我が手を開け、足を開け、手足を見てみろ、「身体髪膚これをあえて気障せざるは孝の始めなり」と先生に教わった。おれの体を手を開け、足を開け、傷がないだろう、これを全うすることできたと曾子は言ったわけでございます。
ところがいま、自殺して何で悪い、人を殺して何で悪い、新聞にも出ているでしょう。少年がね。ひどいのがだれでもいいから人を殺してみたかった。それで幼児を。無抵抗の弱い者ならだれでもいい。とにかく殺してみたと。人を殺してなぜ悪い、これ理屈で説いたってダメなんですよね。ダメなものはダメーッ。この教育がどうしてできない。家庭でも、親と子が口喧嘩しても、親がダメなものはダメ。これだけですよね。たとえば食事の時の箸の使い方、迷い箸ってね、おかず取るのにこっちやったりあっちやったり、昔は怒られたものです。迷い箸するなってね。そんなものダメなものはダメだってね。舐り箸っていうのもありますね、箸をこうやってなめるでしょう。これも怒られた。舐り箸、何でダメなんだよ。理屈なんかないですよね。そういう時に理屈なんかないんです。ダメなものはダメ、これは家庭の躾ですよ。
それなら孝経に何で「親」ということが出てくるかというと、ちゃんと孝経に書いてあるんです。「親を愛する者はあえて人を憎まず。親を敬する者はあえて人を侮らず」。親を尊敬する人は、決して他人をバカにするようなことはしない。親を愛している人は、人を憎んだり、まして人を殺したりしない。だから親子の関係というものが一番大事なんだよということを既に2000年前に教えているんです。
ロータリーは人をつくる ・・・
さあそうしますと根本的に言えば、どんな仕事も一つです。結論として確かにロータリーは職業奉仕が大事だ。その話はまた別になります。しかしそれ以上に間柄の美学でしょう。ロータリーは人をつくる、だから私が10年前に書いたのが『私本 人作りロータリー』、私がガバナー終わった時に、これはもう絶版になっておりますが、講演をまとめたものが『ロータリーは人をつくる』という本です。何でロータリーが人をつくるということを題にしたかといいますと、その時の会長ウイリアム・ロビンス(1974-75)が、「文明の価値は何によって計ることができるか。都市の大きさではない。都市の人口の多さではない。都市の収入の多さでもない。その都市がいかなる人をつくったかによって文明の価値は計れる」と言ったんですね。
銚子というまちに言い換えてみれば、銚子のまちの価値は、銚子のまちの人口の大きさではない。銚子のまちの収入の多さではない、銚子というこのまちがどんな人を出したかによって計られる。そして、ビルが言う。ロータリーの価値は何によって計れるか、クラブの大きさではない、クラブの収入の多さでもない、そのクラブがいかなる人をつくったかによってクラブの価値を計れる。
同じことを会社についても言える。会社の価値は何で計れるか、資本金の大きさではない。売上高の多さではない。その会社がいかなる人をつくったかで会社の価値は計れる。いい人いい人材をつくれば、会社は必ず儲かる。これは事実です。ところが、人というものが抜け殻になってしまって、株価だけが一人歩きしているのがいまの社会、ここにホリエモンのような問題が出てくるわけです。株価というバーチャルなものが一人歩きしている。5年前、東京商工会議所の委員会でのことでした。「このおれの発言だけは記録に留めておいてくれ。今のこの時点で世の風潮は毎期の会社の営業成績には関心がない、関心があるのはもっぱら会社の時価総額だ。これでは必ず問題が起こる」。会議の記録に残っています。会社の時価総額というのはバーチャルなものだ。これだけが最大関心事であるはずがない。会社にとって最大関心事は毎期ゝの足下の業績だ。私が指摘した問題点がちゃんと露呈している。今ああいう事件が起こっている。結局、人をつくるということをしていないからだ。ロータリーはやっぱり「選ばれた人」をつくることが仕事だと思うんです。
● 李登輝からのプレゼント: 「 仁者は壽し 」
-ロータリアンよ「選ばれたる人」という原点に還ろう-
そんなことで、ロータリーは実は人をつくるんだ、「選ばれた人」をつくるんだと、2003年、私は最初にこれを広島県の呉で話をしたんです。呉で講話をした際に一冊の本、小冊子ですが、李登輝(前台湾総統)の書いた『武士道解題』が非常にいい本なのでこれを紹介したんです。そうしたら聞き手の中に台湾の人がいて、李登輝に「あんたの本のことについて書いている日本人がいるよ」と話したんですね。2004年、いまから3年前に私がRIの会長代理で台湾の台中へ行った時に演説でも少し触れたのです。その時に李登輝が私に会いたいということになりました。
そして2度目の台湾訪問時に李登輝さんの自宅へ参りました。例の総統選挙があって、新聞で大きく報道されたのでまだ覚えていらっしゃるでしょう。違法占拠、座り込み、それも数10万規模の。場合によっては李登輝も狙撃されたかも知れない。当時陳水扁も狙撃されておりますから非常に厳重な警戒でございます。その厳重な警戒の中で時間をとって自宅に来てくれということで李登輝さんと私たち夫婦だけ、それを仲立ちした台湾のロータリアンがいまして、その方に連れられて行ったわけですけれど、非常に肝胆相照らして昔の教育はよかったという話から、自分が今日あるのは日本の旧制高等学校の教育を受けているからだと、昔の日本の教育がどれだけ素晴らしいものであったかということなどを話しました。「あなたの話はたいへんためになったので、今度は日本の若い者連れてくるから話を聞かせてくれるか」、「やりましょう」ということになりまして、昨年(2005年)の8月、千葉の2790地区ガバナー、パスト・ガバナーの土屋先生もご一緒されまして、ロータアクト、それに2670地区の関係の皆さんも加わり、総勢36名で李登輝さんの話を聞きに行きました。その中の話をまとめてつくったのがこの本『選ばれたる人』でございますので、詳しくは後でお読みいただきたいと思います。
現在の自分を否定して新しい自分に生まれかわる ・・・
李登輝さんが言っているのはこういうことなんですね。
・< 私の青春時代の魂の遍歴に、最も大きな影響を与えた本を3冊あげよと言われれば、私は躊躇なくゲーテの『ファウスト』と、倉田百三の『出家とその弟子』、そして『衣裳哲学』をあげます。『衣裳哲学』は、18世紀~19世紀にかけて代表的なイギリスの評論家、歴史家のトーマス・カーライルの著作です。そして、この三冊を、アウフヘーベン(止揚)とドイツ語で言っていますが、否定して、また止揚したところに、新渡戸稻造先生と『武士道』があった、と言っても過言ではないでしょう>・――
新渡戸稻造先生はクリスチャン、李登輝もクリスチャンです。クリスチャンである新渡戸稻造が何で『武士道』なんて本を書いたのか、それは当時の国際連盟の会議に出た時に、「日本人の宗教は何ですか」と聞かれた。新渡戸さんは「特定の宗教はありません」と言ったら、会議に出ていた人はみんな不思議がった。「特定の信仰がなくて、どうして道徳教育ができるんですか」、さて、新渡戸さん返事に困った。どうしたものか。「それなのに日本に行くと日本人はみんな礼儀正しくて、親切で」と外国人は言うんですね。「どうしてそんな素晴らしい国民に、特定の信仰もないのに」と。そこで新渡戸稻造さん考え込んじゃった。そこで行き会ったんですね武士道に。『武士道』の原本は英語です。日本語はその後日本人が翻訳したんですが、あんまりいい翻訳じゃありません。結局その『武士道』という本へ行き当たったと李登輝はこう書いております。
・< 私の当時、その年代にあたる旧制中学や旧制高校の学生たちは、「死とは何か」「生とは何か」、「人生いかに生きるべきか」といったことばかり考え續けていたのです。それなのに、いまの日本の青少年には、「人を殺して何で悪いのか?」などと、馬鹿なことを言う者がいるという。人間、「死」という問題を考え抜いて、初めて「生」についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。そしてこの問題に一つの大きな鍵を与えてくれたのが、「永遠の否定」であり、またそれをいかにして「永遠の肯定」に変えていくかという「生の哲学」だったのです >・――
この「永遠の否定」=“The Everlasting No”=・「永遠の肯定」=“The Everlasting Yes”= というのはトーマス・カーライルの『衣裳哲学』の中に出てくる。カーライルで大事なところは、人間は生きていく過程で、決して理屈では解けない問題に逢着する。そうでしょう。さっきみたいに迷い箸何で悪いんだというのは理屈じゃわからない。人を殺して何で悪いんだと言われたって、そんなものは理屈では解けない。戦争で人を殺しているんじゃないか。1人殺せば殺人犯だが、100万人殺せば英雄だ。理屈では解けない。要するに、ダメなものはダメ、そこで「宇宙のあらゆる象徴、形式、制度はしょせん一時的衣裳、ドレスに過ぎない。動かぬ本質がその中に隠れているという問題、これは非常に難しいところですが、そういうことをこの青少年時代というものが大事なんです。だからこそ家庭、家族というものが大事なんです。ロータリーが何でそれを取り上げなければならないかということになると私はそこに思いあたるんです。
とにかく、李登輝は台北高等学校、そして京都大学で学んでおります。李登輝さんがその頃熱讀していた本というのは、全部私なども讀んだものです。当時の学生が讀んだものです。だから、ちょっといまの学生層とは違うかも知れませんね。旧制高等学校の昔の教育はいいって言われていますが、これは確かに違うかと思います。正に選ばれたるエリートです。いったいどれくらいの人が旧制高等学校に入ったか。この間調べてみました。昭和10年代、当時のハイ・ティーンの人数と旧制高等学校に入った人数の割合は、ハイ・ティーンの総人数の0.16%、旧制高等学校は3年制でしたからその3倍いるにしてもその時の日本のハイ・ティーンの0.18%でしかない。これは確かに「選ばれたる人」ですね。エリート中のエリート、だから違うんですよ。
然し、本の中にも書いてありますが、私は仙台の旧制第二高等学校で学びました。尚志会弁論部に所属し、年一度の公開講座に二高の大先輩で北海道帝大の教授だった堀内寿郎先生をお招きしたことがありました。実は講演会の講師を呼ぶのにも弁論部が決めればいい。お金は学校が出してくれる。誰を呼んでくるかはおまえたちが決めろというわけです。その講演会で堀内先生が最後に述べられた一言が未だに忘れられません。
・ < 俺達は育ちが違う!」ということを忘れるな。「育ちが違う」というのは、大学に進み社会に出て、大臣になれ、博士になれということではない。落ちぶれて電車の運転手でもいい。溝浚(どぶさら)いでもいい。学士の溝浚い、学士の運転手 --- それも結構だ。然し、たゞの運転手ではない! たゞの溝浚いではない!--- 育ちが違うのだ --- 我が第二高等学校に学んだということを忘れるな!>・―
その第二高等学校とは何だ。学校でちゃんと教える。「名か非ず 黄金か非ず」。肩書きじゃない。金ではない。名誉じゃない、我が党の尚ぶところは何だ。唯志。
志とは何だ。尚志です。志これは『孟子』にある。『孟子』に「何をか志を尚(たか)うすと謂う 曰く仁義のみ」。それで「仁」とは何んだといったら、ニンベンに二つと書きます。私の言った人と人との間柄、二人です。人間とは、私があってあなたがある、だから人間になる。だから「仁」はニンベンに二人と書いている。その間柄が仁なんです。それをロータリーで言えば、愛だとか何とかね、思いやりだとかになるでしょう。「義」というのは、羊を書いて下に我という字を書く。羊は最高の財産だった。羊の数で財産を計った。毛皮になる。肉はうまいでしょう。乳も飲める。私はチーズなんか、羊のものが好きですね。その羊を捧げて神様に頭の上にこう載せて仕える。それが義です。昔はそういう教育をしていた。
話は後5~6分しかございませんので、少し急ぎましょう。後の方はどうかと言いますと、そういう話を李登輝として意気投合しまして、若い人たちを連れて行くことになりました。その時に李登輝が、「私でない私」ということを話しました。「すばらしく感動的なお話だったが、これだけは何だか解らない」とおっしゃられる方々が幾人もおられました。私はその時咄嗟にいろいろ中国の難しい古典の話などを引いて話したんですが、帰ってきてもう一度よく考えてみました。
昨日まではウォーミング・アップ、今日から本番 ・・・
安積得也という東京南クラブの会員で、もう大分前に亡くなりましたが私の仲のよい友人が居りました。この人は、内務省の官僚で、昔は官選知事でしたから岡山県知事や栃木県知事もやった方です。この人の詩に「いまここにいるぼく」というのがあります。これは吉川英治も絶賛しております。クラレの社長も絶賛しています。こういう詩なんです。これがいいんです。
いま
ここに
ぼくはいる
ぼくはぼくに問う
いまここにいるぼくは
ぼくの全部であるか
ぼくはぼくに答える
否
いまここにいるぼくは
ぼくの全部ではない。
ぼくには
ぼくの
未見の我がある
未だ見ざる我がいる。
自分の知らない国がある。
ぼくの未見の我。
ぼくには
ぼくの
明日がある
明日がある
この「未見の我」ということほど「私ではない私」ということの意味を易しく教えてくれるものはないでしょう。
これが李登輝の言うアウヘーベン。永遠の否定と永遠の肯定、現在の自分を否定して新しい自分に生まれかわる。これが大事なことなんですね。これを価値のコペルニクス的轉回と言うんです。ですから李登輝の言う、「李登輝でない李登輝」というのはですね、パウロの言葉に、李登輝もパウロと同じキリスト教ですから、いまのパウロはキリストによって生かされているパウロである。同じように李登輝が、やはり言わせれば、キリストによって生かされている現在であるとこう言いたいでしょう。同時に彼は尋ねて、中国人としてではなく台湾人としての李登輝とは何であるかを考えるから「私でない私」ということを言いたかったんでしょうね。とにかく常に肯定と否定と繰り返しながら人生を生きていく、これが本当の人生の生き方なんだ。いままではウォーミング・アップ、今日からは本番。これはね安積さんもよく言っていた。昨日まではウォーミング・アップ、今日から本番。人間は一生、常にいままではウォーミング・アップ、これから本番だと。毎日ゝ繰り返す、これが本当の人生だということを言いたかったのだろうと思います。
ロータリーのよさは、よい友人という貯金がドンドン増えること ・・・
もう長くなりましたので、このへんでよろしいじゃないでしょうか。そういうことで、ロータリーというのは、とってもためになる。たくさんのいい人に知り合える。いろいろな勉強をすることができる。これを同じように安積さんが言っております。「ロータリーは出席をうるさく言うけれども、出席は義務ではない。それは自分の為に貯金を作るのだ。出席すればその都度友達という貯金ができる。然も有難いことに、このロータリー貯金帳はいくら引出して使ってもいっこう殘高が減らない」---
ロータリーにとって会員増強は「永遠の肯定」でなければならない・・・
ロータリーについていろいろ批判もございます。今のロータリーに散々批判はありますけれども、このいい友人という貯金帳がドンドン増える。殘高は増えるばかり。今日こうして銚子に伺って、私の貯金帳は確実に増えている。それだからロータリーをやめられない。ところがいま、元会長、ガバナーだった人までロータリーをやめている。何かどこかで狂っているのではないでしょうか。これは皆さん真剣に考える必要がある。ロータリーの最大の功徳は何かと言ったら、私に言わせれば、もうこの貯金帳がたくさん増えるということに尽きる。もう一度ひとつ会員増強はどうあるべきということを皆さんでお考えいただく為になれば有難いと思います。どうもご静聴ありがとうございました。
(結)
● 佐藤千壽先生略歴
1918年 東京下谷に生まれる
1943年 東京帝国大学卒業
1981年 韓国建国大学より名誉文学博士号授与
《現 職》
千住金属株式会社 代表取締役会長
千住スプリンクラー株式会社 取締役会長
(財)美術工芸振興佐藤基金 理事長
学校法人江戸川学園 理事
東京商工会議所 常議員
日経連 常任理事
《ロータリー歴》
1959年 東京東RC入会
1962年 東京東RC 特別代表
1968-69 クラブ会長
1974-75 第358地区 ガバナー
1979-80 RI財団諮問グループ 委員
1986- RI文献翻訳諮問委員
《著 書》
『ようこそロータリーへ』 他多数
【註】
(1) 小原美紀:国際ロータリー第2790地区ガバナー(1983-84)、銚子RC
(2) 1984年3月11日銚子で開催された第2790地区(小原美紀ガバナー)年次大会記念講演のテーマで、同名のタイトルで講演録を出版。後に土屋亮平同地区PGが中心となり松戸クラブで再版。
(3) 土屋亮平:国際ロータリー第2790地区ガバナー(1988-89)、松戸RC
(4) ウイリアム B.ボイド:RI会長(2006-07)、ニュージーランド、パクランガRC
(5) ハーバート G.ブラウン: RI会長(1995-96)、米国、クリアウォーターRC
(6) 2006-07年度 RIテーマ「率先しよう」『ロータリーの友』2006年7月号、P.16
(7) ウイリアム C.カーター:RI会長(1973-74)、米国、バターシーRC
(8)『孝 経』:
「身体髪膚 これを父母に受く あえて毀傷せざるは 孝の始めなり」 (開宗明義章) 「身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也」
「親を敬する者は、あえて人を慢らず。 (天使章第二) 「敬親者不敢慢於人」
「子曰く 親を愛する者は あえて人を悪まず」 「子曰愛親者不敢惡於人」
(9)ウイリアム R. ロビンズ:RI会長(1974-75)、米国、フォート・ローダーデールRC
(10)「仁者は壽し」:佐藤先生八十八歳を祝して李登輝が揮毫した書幅の言葉、『論語』の古来有名な言葉ですが、「ロータリーの標語“He Profits Most Who Service Best” とも讀み替えられるでしょう」、佐藤千壽『選ばれたる人』
(11)尚志会歌 旧制第二高等学校の生徒・同窓会「尚志会」の会歌中「世の常の榮かあらず 名かあらず黄金(こがね)かあらず 我党の尚ぶ所 何かそも唯志・・・・」から引用。
(12)『孟 子』:「士何をか事とす 曰く志を尚(たか)うす 何をか志を尚うすと謂う 曰く仁義のみ」
(13)安積得也 東京府経済部長、岡山県知事、栃木県知事。 「我が立つところ 深く掘らば 何処にも清泉湧くべし」。未見の我は 『詩集 一人のために』に収録。
(14)アウフェーベン:「私をして敢えて言わしめれば、人間にとって基本的に大事なのは、正 → 反 → 合 ・--- と常にAufheben=止揚=を重ねながら前向きに生きていく生命の燃燒です。」、佐藤千壽『選ばれたる人』、P.49ブロックを追加ブロックを追加
本稿は2006年3月12日、銚子RC(会長宮崎裕光)が千葉科学大学マリーナキャンパスで開催したロータリーセミナー佐藤千壽先生講演会「選ばれたる人」の講演内容を銚子RC50周年記念誌委員会の裁量で要約したものであり、編集上の一切の責任は銚子RCにあります。